ロッキー青木氏は1938年10月9日東京で誕生し、2008年7月10日にニューヨークの病院で生涯を閉じた。
慶應義塾大学在学中にレスリングの日本代表としてアメリカ遠征後、そのままニューヨークに残って勉学とレスリングを続けました。ニューヨークで屋台のアイスクリーム販売で成功したのをきっかけに、1964年にマン ハッタンで鉄板焼きレストラン「ベニハナ・オブ・トーキョー」を始めました。鉄板の前でシェフが調理器具を使ったショー的要素を加えたクッキングスタイルとリーズナブルな価格でレストランは大人気となり、全米でチェーン展開(80店舗)をして大成功を収めたのです。
また彼はレスリングでも1962年から64年までの3年間フリースタイルとグレコローマンで全米チャンピオンにもなっています。
冒険家としては1981年11月12日に、ロッキー青木氏と日米の4人で三重県の長島温泉からヘリウムガス気球(ダブルイーグル号)で米国西海岸まで太平洋発横断に成功しました。長島温泉は私の名古屋の自宅から近いところで、このニュースを聞いたときは、『すごいことをやる人がいるもんだ!』と驚いたことを今でも覚えています。所要時間は84時間31分、飛行距離9,600キロという気球飛行の世界記録を樹立しました。
彼との出会いは1994年にさかのぼります。
前の会社に在職中、ニューヨークのカーネギーホールを貸切って日本の伝統芸能を紹介するという初めてのイベント開催が決まりました。最も重要で難関な観客動員について現地の信頼できる協力いただけそな人物を探していたところ、某新聞社編集局次長のS氏からロッキー氏を紹介していただきました。
さっそくアポイントを取り、ロッキーさんに会うためニューヨークに飛びました。
ロッキー氏の印象は肩幅が広くてがっちりした体型、身長はあまり高くなかったが、小顔のせいか脚が長く感じられ、話し方もとても和やかであるにもかかわらず迫力が感じられ、最初はとても緊張してしました。
しかし、話し出すと想像していた人とは随分違っていました。
とても気さくな優しいロッキーさんは、日本を愛し、伝統文化や伝統芸能をはじめとする日本の文化やあらゆることについて、とても大切にしていることが言葉の端々で感じることができました。
私たちが企画しているイベントについて、ロッキーは“見世物的な受けを狙うようなパフォーマンスで日本の誇りを傷つけるような公演なら、協力はできないし、やらないで欲しい。とにかく日本のアメリカでのプレゼンスを落とすようなことはしないで欲しい!”と言われました。
ロッキー氏は、米国名誉会長として「日本の祭典」の公演の告知や観客動員を自ら先頭で引っ張ってくださいました。
ロッキー氏のほか、稲垣茂氏(故人、元ニューヨーク日系人名誉会長)、リンゼイ芥川笑子女史(主婦の友ニューヨーク友の会理事長、下写真左から2番目)にも大変お世話になりました。
1996年、第2回「日本の祭典」終了後、地下倉庫で楽器や舞台道具の荷造りをしていました。すると後日、打上パーティに参加ができなかったことを知ったロッキーさんが、自ら運転するロールスロイスで会員制クラブのシガークラブに連れて行ってくれた事を今でも鮮明に覚えています。
JFF設立から3年を経た2008年5月末、ロッキー氏と東京のパレスホテルで10年ぶりに再会しました。
ロッキー氏から開口一番、「かって開催した伝統芸能公演をまたカーネギーホールでやって欲しい!」
その時のロッキーさんはあまり元気ではなさそうでした。声も少し弱々しく、とても心配になりました。
その後、ニューヨークに帰国したロッキーさんの容態は悪化していったようで、約1か月後に亡くなりました。
ロッキーさんの訃報を聞いた時、本当に悲しくて、残念でなりませんでした。
またロッキーさんと一緒に仕事ができると思った矢先の出来事でした。
ロッキーさんの《言葉》は私たちへの遺言と思い、そこからは本格的に準備に取り掛かり、翌2009年9月カーネギーホールで「日本の祭典」を開催することができました。
その後、JFFではミュンヘン、マドリード、プラハ、ハノイを含む計5回「日本の祭典」というタイトルで開催しました。これからも日本の本物の伝統芸能や伝統音楽を通じて、海外の人々に日本を正しく理解してもらう事業は、ロッキーさんも望んでいたことだと信じており、これからも本物の日本の伝統文化を広く国の内外に紹介することを続けてまいります。
“見世物的な受けを狙うようなパフォーマンスの公演なら協力はできないし、やらないで欲しい。アメリカでの日本のプレゼンスを落とすようなことはしないで欲しい!”
この言葉を胸に刻み、日本人としてのアイデンティティを大切にし、日本の伝統芸能、伝統文化への国際的な理解と感動のステージの創造を目指してまいります。
“ロッキーさん、本当に有難うございました!”